『学習指導要領』及び大学入試に対する意見(2021年)
Ⅰ .はじめに
かつての『学習指導要領』が主に授業の内容を規定してきたのに対し、最近のものは学習方法や評価にまで言及してきている。今回公示された『学習指導要領』はますますこの傾向を強め資質・能力をも規定した。これでは現場の授業を今まで以上に拘束することになり、教員の自主的創造的な授業の障害になることが憂慮される。教育は、一人一人の子どもの現実を踏まえて教師が創意工夫して行うところに本質がある。このことは、1947年の「試案」が以下のように雄弁に述べているとおりである。
「その地域の社会の特性や、学校の施設の実情や、さらに兒童の特性に應じて、それぞれの現場でそれらの事情にぴったりした内容を考え、その方法を工夫してこそよく行くのであって、ただあてがわれた型のとおりにやるのでは、かえって目的を達するに遠くなるのである。またそういう工夫があってこそ、生きた敎師の働きが求められるのであって、型のとおりにやるのなら敎師は機械にすぎない。」
新学習指導要領は、「教師は機械になれ」というのだろうか。
また、今回公示された学習指導要領は、学習に関する相反する二つの考え方を混在させており、内部矛盾を含んでいる。一方の考え方は、旧来のように個人に競わせる学習手法・学習観であり、もう一方は、欧州評議会で共有しようとしている体験的・協同的能力観と学習手法である。新学習指導要領は「国際的な」理論的根拠を取り入れようとして『外国語の学習・教授・評価のためのヨーロッパ共通参照枠』(以下、CEFR)の考え方を部分的に借用しているが,他の部分と整合性がない。例えば、EUに倣ってアクティブ・ラーニング(「主体的・対話的な深い学び」)を強調しているが、考え方の基本にある複言語主義や平和と権利という目標については全く言及されていない。同様に、本来は熟達度を評価するためのCAN-DO記述も、まるで達成目標であるかのように扱っており、子どもたちは、学校内では観点別評価で立ち居振る舞いまで評価・序列化され、学校外では業者テストでの高得点を目指させられようとしている。
必要な資質・能力については、(1)知識及び技能が習得されるようにすること、(2)思考力・判断力・表現力等を育成すること、(3)学びに向かう力・人間性等を涵養することをあげ、各教科の「目標」で具体化させている。これらを学習指導要領で細かく規定することは問題であるが、CEFRとの整合性を持たせようとするなら以下のようにすべきである。
- (ア)「共通参照レベル」は達成目標ではない、と明記すること
- (イ) CAN-DO記述に基づく「学習到達目標」は定めないこと
- (ウ)「観点別学習状況の評価」を強制しないこと
- (エ)「外部検定試験」を学校教育に持ち込まないこと
次に、この『学習指導要領』に加えて、「全国学力・学習状況調査」「外部検定試験の強制」「OECD諸国で最低クラスの予算」「OECD諸国最長の勤務時間」など劣悪な教育環境によって、日本の外国語教育は困難な課題が山積しており、児童・生徒間の学力格差が拡大しつつあることは重大な問題である。
小学校では、外国語(英語)の教員免許状を持たない学級担任が「外国語活動」「外国語科」を教えることになり、その努力にもかかわらず「英語は嫌い」という児童が20%以上生まれている(国立教育政策研究所調査)。また、「小学校英語」が拡大されるにしたがって、学習の遅れを心配して塾に通わせる保護者が増加している。塾に行く児童は、学校では教えない内容を教わったり、学習を先取りしたりすることが多いという現実の中で格差が生じているのである。『学習指導要領』での「早期化」・「教科化」によって、この傾向に拍車がかかることは明らかである。
こうして中学校では、一部の生徒が「マイナスからのスタート」を余儀なくされ、学習内容が本格化する中で、さらに授業が分からないという層が増えている。学校ではコミュニケーション活動、塾では文法という傾向も聞かれ、塾に行けない子は落ちこぼれ、「二極化」が進んでいる。ここに「英語の授業は英語で」の方針が過剰に導入されれば、その傾向がさらに加速することが心配される。また「習熟度別指導」によってこの格差が固定化される恐れもあり、差別感・屈辱感をいだかせ、学習意欲を失わせることにもつながる。
高等学校は入学時点で学校自体が「習熟度別」になっているわけであるが、既に「英語の授業は英語で」が推進されている。これによって、基礎が十分定着している生徒は授業で総合的な学力を身に付けることができるかもしれないが、そうでない多くの生徒は必要以上に授業を英語で進められると、授業が分からないままになりがちである。また、「高等学校卒業段階で英検準2級程度から2級程度以上」という目標は、スーパーグローバルハイスクールなどの一部の生徒を対象としたものとしか考えられず、大多数が蚊帳の外に置かれている現状は看過できない。
以上のような「学力格差」の拡大は、根本的には「7人に1人の子どもが貧困」と言われる経済格差に基づくものであると考えられるが、それを是正するような施策が決定的に不足している。本来なら、子どもたちに十分な教育を保障するための予算を割り当てる必要がある。しかしながら、教育費の公的支出がGDPに占める割合は最新のOECD調査37カ国(平均4.9%)中4.0%という貧しさである。さらに、大谷泰照氏によれば、国家予算に占める教育関係費は1975年の12.4%から後退を続け、2013年にはわずか5.8%にまで半減している現状があり、大幅に改善すべきである。例えば、「全国学力・学習状況調査」の実施を数年に1回とし、その分の予算を教員数増にまわすべきである。なお、今回のコロナ禍により、少人数のクラスサイズの速やかな実施の必要性が改めて証明されると同時に、教員の勤務実態の劣悪さが再確認された。加えて、教育予算の地方公共団体による格差がICT環境の差を露呈した。2年ぶりに行われた「全国学力・学習状況調査」でも「学力と家庭環境」の関係も顕著となった。文部科学省は2021年度より「『小学校35人学級』の計画的な整備」を学年進行で開始した。編成基準の約40年ぶりの引き下げであり、一定の評価はする。しかし、2025年度まで長期にわたるものである。一刻も早く整備を完了するとともに、義務教育諸学校の小学校だけでなく、中学校、さらに高等学校に至るまで実現できるように地方公共団体と協力して予算化すべきである。詳しくは後述するが、外国語教育、外国語習得は、少人数による「対面教育」なしでは成立しない。